登入ぷしっ、と缶ビールを開ける音が、遥の家のリビングにに二つ響く。
そのままごくごく、とビールを飲み干すと、遥と麻衣はぷはーっと大きく息をついた。
月の始まりだが、曜日は金曜。週末だ。
目の前のテーブルには、ホットプレートの上でお肉がおいしそうなにおいを立てて焼けている。二人はまずは腹ごしらえ、と、肉を取りサンチュに巻いてパクリ、とかぶりつく。
「遥。あんた優しすぎ。あの小田をのさばらせておく必要ないよ」
「そうだけどさ。あの『氷の機械』の目の前で事を荒立てると、後が面倒じゃん。PCのセッティングぐらい、別にどうってことないし」
「それはそうだけどさ」
ぐいっ、と麻衣はまたビールを一口飲む。
遥は黙々と新しいお肉をホットプレートに並べ、週末だからもういいよね、と言いながらニンニクのスライスを少しならべた。香ばしいいいにおいが立ち込める。
「ところで遥、その藤堂さんと、会議の始めに見つめ合ってなかった?」
麻衣が香ばしいにおいに鼻をひくつかせながら、突然の爆弾発言をぶち込む。
遥はぶはっ、と飲みかけのビールにむせた。
「ななな、なにを突然」
「慌てるってことは、図星じゃん」
麻衣がどんどん焼けた肉をぱくついていくから、遥も負けじとサンチュにとって巻いて口に入れる。
「えっとその……推しに似てたからじゃないかな」
「なに?例のショートドラマ?」
「うんそう」
わかってる。今の日本でニッチすぎる分野だってことは。
けれど、見慣れたアジア人なのに、欧米人かと見まごうばかりの美貌、そして繊細な演技。見てしまえば惚れないわけがない。
「それにしても、そのドラマ?どこで知ったのよ」
「インスタ見てごらんよ。絶対広告で流れてくるから。やたらビンタしてるし、愛人は大きい顔してるし、ショーワの昼メロかよって突っ込めるよ」
「ショーワの昼メロって、また古いじゃん」
「でも一周まわって、逆に新鮮よ。最近のテレビドラマじゃ見ないじゃん」
へーとでも言いたげな顔で、ビール片手に麻衣がスマホをくるくるとスクロールさせる。
「あ?これ?」
麻衣がスマホの画面を見せてくるから、遥はグラスを置いてじっくり見る。
「そう。でもこれ、AIドラマだね。最近は本当に多くなっちゃって。確かに見目麗しいけど、イケメンの鑑賞って感じじゃないんだよね。AIだから超絶イケメンだけどもさ」
「でた。イケメン鑑賞」
ふーん、といいながらいくつか広告を見ているようだったが、あっという間に麻衣は興味を失った。とことん現実路線の麻衣は、アプリの中でしか会えないイケメンに興味はない。
「まぁでもさ。遥ももう少し早くアプリの中のとはいえ、イケメンに目覚めてたらなぁ」
「……鈴木くんとは付き合わなかっただろうって?」
「わかってるじゃん」
遥は、グビリとビールを流し込むと立ち上がり、冷蔵庫から箸休めにエビとブロッコリーのXO醤炒めを持ってくる。これだって、ショートドラマに影響されたものだ。
本来は暖かい方がおいしいのだろうが、冷菜にしてもおいしいことを発見した遥は、週末の酒のつまみによく作り置きしている。
「こういう、気の利く感じが、鈴木のツボだったのかなー」
「もうやめてよ」
「あれか、いわゆる『クズ男』ってやつだよね?鈴木って」
興味がない割には、そういう細かい設定を覚える麻衣は、にやにやと笑って突っ込む。
遥は小さくため息をつくとエビを食べ、ビールを飲む。
「そうだね。まさかさ、人の仕事の成果を横取りした挙句、若い子に乗り換えるとは、確かにまごうことなきクズ男の行動だよね」
「しかも、顔は並みよりちょっと良いぐらい、だしさ」
「だよね。あれをイケメンと思ったわたしが馬鹿だったなー」
半年前。
俺のメンツを立ててくれないような女と付き合うのは、もうこりごりなんだよね。
そんな言葉とともに鈴木にあっさり振られた遥は、その週の週末、たまたま渋谷のホテル街に向かって腕を組んで歩く鈴木と小田のカップルを目撃してしまった。
あぁそういうことか。
ここ数か月、ずっと感じていた違和感。
それまでは、男と肩を並べて仕事をする姿勢がかっこいい。ちょっと長身がなんだ、洋服をきれいに着こなせていいじゃないか。
そんなふうに言っていたくせに、急に「やっぱ、女の子はアシスタント職でサポートしてくれてなんぼだよな。ちょっと小さくて、見下ろす感じが守ってあげたい感じでかわいらしくていいよ。遥さ、長身は仕方ないけど、態度だけでもかわいらしくすれば?」真逆なことを言い出したのだ。
その変わりように戸惑ったものだったが。
女性の標準身長で、折れそうに華奢な体型をしている。ふわふわなロングヘアをなびかせ、業務サポートをする小田、という新しい彼女はもう手に入れていたわけだ。
腕を組んで絡み合うように歩く二人を見て、納得しつつも、遥は足元にぽっかりと大きな穴が開いた錯覚に襲われたのだった。
「ま、遥みたいにいい女の価値を分からんあいつは、所詮二流なのよ」
黙り込んだ遥を気遣って、麻衣はバッサリ話題を打ち切る。
鈴木は、もう一つ遥を大きく傷つけた。
広報に配属された同期二人、最初は遥の方が昇格が早い、とうわさされていた。
それが急に、鈴木が遥を振ったあたりから、雲行きが怪しくなった。
ミスが鈴木に見つけられる。
提出した案が、ことごとく鈴木に負ける。
どうしてこんなに流れが悪くなっていくのかわからず、ただ対応に追われるうちに、今年度の昇格を攫われていた。
振られたことは、もう遥は笑って口にできるようになった。
でもさすがに、昇格を抜かされた今日の今日では、鈴木に仕事でも負けた、とは口にできない。
心の傷口からは、血がどくどくと流れているといっても過言ではない状態なのだ。
「ごめん、遥、泣かないで」
気が付くと、麻衣がそっとティッシュでほほをぬぐってくれている。
言われて、遥はようやく自分が涙を流していることに気が付いた。
「麻衣……やっぱり悔しい……悔しいよ」
気が付くと、遥は大号泣していた。
一日の悔しさを一気に押し流すかのように。
なんだろう。 イケメンだと、語る言葉までイケメンなのか。 食事を終えて一緒に電車に乗り、先に遥が下車するまで藤堂は完璧な紳士のふるまいだった。 電車を降りてドア越しに手を振ってはじめて、「あっ、ここはコーヒーでも飲みによりませんか、って言うべきだった?」という疑問に襲われたぐらいで、どうやったらあんなに完璧な配慮ができるんだろう?と、遥は不思議でたまらない。 遥はふわふわした頭のまま、翌日の日曜を過ごした。 いつまでも恋にうつつを抜かしているわけにはいられない。もう三十路が見えているんだし、ここは大人としてしっかりやることをやらなければ。夕方からマーケティングの理論の本を読み、平日に向けてビジネスモードを高める。 そして、週が明けて月曜日。遥の昇格と異動が正式にマーケティング部に周知された。「み、水野さん、企画担当おめでとうございます!!だ、だけどっ」「もう、チームを率いてくれないんですか?」 部内共有チャネルで情報が流れた後、あちこちで後輩たちが立ち上あがり、遥のもとに駆け付けてくる。「うん、ごめんね。本当はずっと商品企画が希望だったの。欠員が出るからって、打診が来たんだ」 昇格について言及する人もいるが、それよりも遥が異動することの懸念の方ばかり言われて、遥はひとまず部署異動の方にコメントする。「でもそんな、マーケ部で主担当業務に慣れてから異動したっていいじゃないですかっ」 そう言う後輩の向こうで、鈴木がこちらに視線を送っていることに、遥は気が付いた。 でももう。関係ない。 遥は自然な動作で、鈴木の視線を切った。「はいはい。それでは、資料のまとめ方の極意を知りたい人!」 遥の周りで、バラバラっと手が上がる。「じゃ、どこかで資料のまとめ方の引継ぎ会するから、ほら皆、仕事仕事!」 いつまでたっても終わらなさそうな雑談を、遥は強制的に終わらせて後輩たちを席に戻す。「ふぅ」 さすがにため息をついて席に座ったら、向かいの席の後藤が面白そうに声を掛けてくる。「人生最大のモテ期じゃないですか?」「失礼ね。モテ期は他にちゃんとあります」 モテ期。……藤堂。 反射的にそう連想し、思わず顔が赤くなる。赤くなってるとわかっているけど止められない。 後藤にどう思われているんだろう、そう思ったけど、後藤は全く注意を払わず、そのまま
遥は見たくないとばかりに一度ぎゅっと目を瞑り、そこからそろそろと半眼を開ける。 薄目じゃないと怖くて確認ができない。「えっと……週末、どこかでデートしませんか……えっ……」 遥ははっきり目を見開くと、麻衣の手からスマホを取り返す。 デートしませんか その短い文字を確認し、画面の上にメッセージ主の名前を確認する。 藤堂悠真。 間違いない、本人だ。「これって」 遥は呆然と画面を見つめる。「ここまできて、告られてないとか御託並べないでよ?もうはっきり、お誘いされているじゃん」「うそ」
言っちゃった、言っちゃった、言っちゃった。 なんてことを言っちゃったんだろう。 暗い窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。こんな地味な顔で、あんなにイケメンで有能な男性に、あんなとんでもないことをとうとう言ってしまったなんて。 座れはしないが、人と触れ合うことなく立っていられる車内で、遥はわぁぁぁっと叫び出したい気持ちをぐっとこらえた。 なんだかそれは、泣き出したい気持ちをこらえているのに似てるな、と遥はぼんやり思った。 ✿ 家にたどり着き、熱いシャワーを使って人心地ついてた遥は、へたりこむようにベッドの縁に座り込んだ。 あの言葉。 ふいに、思わず言ってしまった言葉が再び脳裏に浮かぶ。 叫び出したい気持ちが止まって、ちょっと落ち着いた今、自分言ったあの言葉は、「わたしからも|≪お付き合いを≫お願いしたいです」という意味だと果たして正しく伝わったのだろうか、という疑問が遥の胸の内に浮かび始めた。
は、遥……な、名前で呼ばれた…… そんなことを考える場合ではないことはわかっている。わかっているけど、突然の展開に遥の頭が付いていかない。「で、でも、わたしたちまだそんなに……知り合って間もないって言うか」 震える声で、何とか答える。 藤堂といっしょに案件を遂行したこの数か月で培ったはずの自己肯定感がどこかに飛んでいき、また以前の自信のない遥に戻っている。 いや、恋愛の面だけで言えば、鈴木に躓いた経験のせいで、自分の「男性を見る眼」の不確かさという失点が上乗せされていて、より臆病になってさえいる。 絶対、面倒くさいと思われている。 遥は視線を落とし、膝の上でぎゅっとこぶしを握る。 だがそんな遥に、藤堂は穏やかに声を掛ける。「時間は短かったが、あれだけ色々あった案件を一緒にやってきたから、仕事の表面だけじゃない、人柄もよくわかるような付き合いはできたと思う」&nb
「なに、遥。藤堂さんとプライベートなLINEの連絡先、交換したんだ」 麻衣の一言に、遥は慌ててスマホの通知画面を手で隠し、上がってしまっている口角を何とか元に戻そうと格闘する。「え、うん、なんかそういう流れになって」 我ながら言い訳が下手だ、と遥は思う。どういう流れなんだ。そもそも、どこからそういう流れになったのか、とか更なる質問を誘発しかねない言い訳を口にしたことに気が付いて、遥は後悔する。「流れ、ねぇ」 意味深につぶやくと、麻衣はちょうど運ばれてきたパスタに手を付ける。「なんにせよ、鈴木から完全に解放されてなにより。同じ立場に昇進してさらに部も異動、プライベートでもはるかに格上の藤堂さんとうまくいきかけている。人生突然好転したじゃない」 思いもかけない達観した台詞に、遥は戸惑う。「え、そうだけど……何もツッコまないんだ」「ツッコんでほしいの?」
高級そうな内装の車に乗っている遥は、急に停車したせいで、がくんと前につんのめった。 あんまり上手じゃないな、この運転手。 そう心の中でこぼしていると、ドアが外側から開けられる。「降りろ」 冷たい声でそう言いながらも、手を差し伸べてくるのは――藤堂。 あ、夢だね。これ。 すぐに夢だとわかるようになったきたけど、わかったからといってすぐに夢から覚めるわけではない。夢が行きつくところまで行きつくまで、遥には拒否権はないのだ。 だったらせめて、心臓に悪い事態に陥りませんように、と遥は祈る。前みたいに、キスしようとかして顔を近づけられたら、わたし、息が止まるかもしれない。 そう思って車から降りるのをためらっていると、藤堂は苛ついたかのように強引に遥の手を取り、無理やり降車させる。「ちょっ、藤堂さん!」